安息日を聖とする

主はモーセに言われた。 あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。 あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。 安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。 六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。 これは、永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたからである。” ‭‭出エジプト記‬ ‭31‬:‭12‬-‭15‬, ‭17‬ 新共同訳‬ https://bible.com/bible/1819/exo.31.12-17.新共同訳

日本で住む私たちにとって、日曜日に仕事を休み、また自分の個人的な必要を満たすために安息日を犠牲にせざるを得ないことはよくある。出張、学校行事、部活や、友人との交わりや、家族の行事。どれをとっても大切であるし、教会に行かないことや行けないことの理由としては、理解できる。私自身、牧師をしていた時は、教会のメンバーの来られの理由を理解していたし、しょうがないことだと思っていた。

しかし、聖書を読むと、理解とか難しいとか、そのレベルではないことが明らかである。

「安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。 」

守らないなら、極刑、つまり死刑である。

それを汚す、つまり軽視するものは、“必ず”死刑であり、その民、神の民の一族から、絶たれる。

かなり厳しい。聖書を信じ、従って生きる私たちには、軽視しては行けない御言葉である。

以前は、教会のメンバーに彼らの生活を十分理解して、安息日を遵守できなくてもしょうがないという風に伝えていたけれど、この御言葉と向き合って改めて、きちんと教えなければならなかったなと思わされ、悔い改めさせられた。

牧師家庭で育ったので、うちの家では決して日曜日に他の行事を入れることは許されなかったし、例外はなかった。風邪になっても、休んでは行けないと。むしろ礼拝に行くと癒されるとまで言われたことがある。ちょっと厳しすぎるんじゃないかと思って抵抗したこともあるし、今でも少しそう思うこともある。その甲斐あってか、日曜日礼拝に出席できないようなことがあると、非常に罪悪感を感じてしまったり、なにか居心地が悪く感じることがある。

今となっては、親の努力に感謝していると言わざるを得ない。

出エジプト記の神様がイスラエルに言った言葉、「あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである」。

ここには、3つのことが書いている。

  • 安息日を守らなければならない

  • 代々、神とその民の間のしるしである。

  • 神が私たち神の民を聖別する主であることを知るため。

安息日を守ることは、神様の民である“しるし”であり、神様が私たち安息日を守る民を“特別視”していることを私たちが知るためである。ということです。

神様は完璧な方であり、しかも良い方。

その方が私たちのために、また私たちとの関係を特別なものとしてくださるために用意してくださったのが、安息日。それは、私たちを不自由にするためでも、疲れさせるためでもなく、文字通り、生かすため。そしてより豊かな人生を生きるためなのだ。

安息日を守ることは絶対か。

その答えは、はい、もちろんです。

しかし、これは個々人と神様との歩みの成熟度による。

と、いうのは、神様も教会も、誰もこれを強制はしないからである。現代社会で、安息日を守らないからといって、夜な夜な、暗殺者がやってきて、私たちを殺すということはない。じゃあ、軽視していいのか。そういうわけではない。

律法は、もちろん守るためにある。

しかし守れないものである。律法の働きの一つは、私たちが以下に自己中心的で、簡単に罪と定められてしまうのかということを明らかにするためである。だから、だめ、ということでもない。

自己中心的で、簡単に罪に落ち、またどうしようもないくらい罪人であるということがはっきりさせられるから、神に立ち戻り、神に頼り、共に生きるのである。

安息日は、週に一回、神の前にでて、罪との戦い、自分のとの戦い、社会との戦いから解放され、神の臨在の中で休む機会が与えられているということである。これをすることが私たちの本質的な意味で休みになり、回復になる。安息日は私たちのためである。

それを知っていて、安息日を守らないのは、その人の責任であり、その人が神と関係の中できめなければならない。神も、教会も、私も、誰も律法を強制はできないのである。

じゃあ、「安息日=日曜日の礼拝に参加する」なのか?

簡単な答えは、「それも含まれる。」といっておくといいと思う。

詳しくは、安息日について、また書こうと思う。

セラ

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