牧師のメンタルヘルス

少し前にFBに、牧師のメンタルヘルスに関する記事が上がっていました。

「最近の研究によると...(アメリカでは)毎年4,000~5,000人の牧師が辞めているそうです。彼らが辞めるのは、神への信仰が足りないからではありません。神が自分の人生に置かれた召命を信じられないから辞めるのではありません。ほとんどが経済的な理由で辞めるわけでもない。牧師が辞めるのは、精神的な疲れに圧倒されるからです。」(Jim Cox Jr. さんのFBからの引用抜粋)

 この記事は数年前のもので、コロナ禍やコロナ後では、この数は増えていると体感しています。事実、私の近い牧師仲間のほとんどが現職を辞めて、他の教会に移ったり、牧師を完全にやめてしまいました。上の記事はアメリカでのことなので日本には当てはまりません。私の知る限り日本の牧師には、辞めるという選択肢はなかなか無いように思えます。その理由はまちまちだと思いますが、子供が小さかったり、牧師になるために教育をうけ、そのために人生を捧げていた場合、それ以外の生き方を知らなかったり、経済的な理由や、日本独特の恥の文化(辞める=失敗)だったり、日本キリスト教業界の狭さから、牧師を辞めた時点で通ったり所属する教会が困難になったり、いろいろな理由が挙げられます。

 だからと言って、日本の牧師がアメリカの牧師に比べて精神的な疲れが少ないかと言われれば、そのようなわけなはく、むしろ、私の知りうる日本の牧師のほとんどが精神的にギリギリのところで何年も休みや気分転換もなしに何年も、辞められないでいる牧師たちが山ほどいると思います。この記事の目的は別に辞めることを助長したいのではなく、むしろ辞めなくていいように、どのような環境やマインドセットがつくれるのだろうかというところにあります。


 ミニストリーにおいて、焦燥感と閉塞感は常に隣り合わせの感覚です。そしてこれらのものが失望を与え、牧師たちの魂を深く傷つけます。焦燥感とは、「早く結果をださなければ」とか「このままではいけない」「何かを変えなければ」といった気持ちです。閉塞感とは、「何をやっても無駄」「終わりはあるのだろうか」「自分はどこにも行けずここで終わり」、そのような感覚のことです。特に日本において、この焦燥感や閉塞感は社会全体が馴染みのある感覚かもしれません。だからこそ、多くの人たちの心に耳を傾け、寄り添う仕事である牧師職をしている者は、自分の必要を二の次にしてしまう傾向にあります。社会で働いている人たちと比べて、「自分はそこまでたいへんじゃないはず」などど思ってしまうからです。なので、教会員などには優しく、気遣いの言葉をかけられるのに、自分にはそれを適用としない方が多いのです。


 模範的な解決策としては、『福音に立ち返り、祈りの中で神様に出会い、その中で回復するべき』であるのでしょう。それは全くその通りです。むしろそれ以外があってはいけません。しかし、罪悪感や羞恥心、そして孤独感の中で動けなくなっている者の中で、”そこへ”向き合うことのできる牧師たちがどれほどいるでしょうか。闇に向き合い、闇に見返されることほど恐ろしいことはありません。

 できない。逃げたい。疲れた。という言葉を発すること自体は、罪ではなく、その考えがあることと行動に移すことは別のことです。必要なのは、自分を知ってもらうこと。また自分を知ること。それを全てを知っていて、なお受け入れ、愛することを辞めない神に出会うことをするために、独りで闇にいることより、話すことを選択してほしいと私は思います。

 魂をもてなす。これは身体(心と体)そして、霊(ルアハ)をしっかりと見つめ、全存在として神に向き合い、そこで神様の元々のデザインであるワタシに出会い、回復していく作業です。



セラ

Previous
Previous

安息日を聖とする

Next
Next

ポッドキャスト「ソウルケアとは」