牧師が死ぬ。


先日、知り合いの牧師が自ら死を選んだ。

残念ながら、自分の知り合いの牧師が自殺するのは、これが初めてのことではない。

牧師が死ぬほどの苦悩、孤独、失望、閉塞感とは一体どのようなものだろう。

 私が、ソウルケアを始めたいという願いが与えれたのは、たぶんその辺りにあると思う。 自殺という、いわゆる究極的選択をしなければならない状況。とくにクリスチャンが、癒しや慰めを神様に求めても、あるいは、求めることもできないと思うような状況。祈らないといけないとわかっていても、祈る言葉が見当たらない状況。そのような時に、周りに、自分の話を聞いてくれる、解決にはならないけど、ただその時間を一緒に過ごす人はいなかったのだろうか。裁きを恐れなくてよくて、今以上に自分を恥ずかしく思わせない、そんな安心して、話せる仲間はいなかったのだろうか。

 自分の場合は、感謝なことにいたし、ただ自分の話をきいて、一緒に祈ってくれる霊的同伴者がいた。時には、30分くらいの沈黙。ひたすらの沈黙。それだけで、なぜか涙が流れてくる。そんな時間がありました。

“神様は、私たちにとって充分です。”

 それは、頭ではしっかり理解している。それでも、極論、それを教えてくれる人、思い出させてくれる人、一緒に体験できる人。それなしに、私たちはどうその神と出会うことができるでしょうか。

 頭だけの話を言えば、霊的形成とは、悔い改めによって起きます。自分の世的な考え方を、神様のご人格に譲っていくときに、私たちは、霊的変容をすることができます。

しかし、それは独りでは難しいでしょう。

 神の御言葉と、聖霊の人格とその力によって、またキリストにある聖徒との交わりの中でこそ、それが可能になります。私たちを作り変える聖霊の働きは、時として、非常にゆっくりで、丁寧です。また、非合理的なものに感じるかもしれません。その歩調に、自らを明け渡し、そのペースに合わせ、自らを委ねていくそのこと、その姿勢自体も、霊的形成の大切なステップであるかもしれません。

 セラ・ソウルケアは、教会の牧師たち、リーダーたち、イエスの見習い(弟子)たちが、神様と自分との時間を持ち続けることができるように、その場所と時間を取り分ける(Set Apart)のを助けたいです。その気の遠くなる霊的形成と寄り添って歩むことができたら、いいなと心から願います。自ら死や、孤独、罪悪感へ、自分を追いやる前に、話を聞かせてください。

Selah

Previous
Previous

ポッドキャスト「ソウルケアとは」